2005年09月03日

長谷川町子全集を購入、その他。

我がサイトにも「今風遊び心」を導入、ということで、blogペットなるものを貼ってみました。
トップページ左、枠内のパンダをクリックすると、なんだかしゃべります。
当サイト内の文中から任意に単語etcを拾ってくるんだそうで、なんだか「バーチャルリアリティな感じ」です。
ただ、今のところ、「少女ー!」とか「壊滅ー!」とか、「悲観的ー!」「未成年とヤるー!」など、ロクな言葉を話しません。実にイヤな感じ。

それはともかく、このほどYahoo!オークションでもって、長谷川町子全集を購入してしまいました。
してしまった、というのは、これが典型的な衝動買いであったからなわけですが、それはともかく、いやはや、どれもスバラしい。
当サイト管理人は長谷川町子作品ファンでありマニアであることを自認しておりますので、それ故この度までこれを買わずにいたことに、大げさでなくかなり罪の意識を覚えたりしてたのですが、そんな罪悪感からもこれで開放。

その作品群のスバラしさについては、私のような若輩者が語るにはもったいなすぎるので多くは語りませんが。
が、これは世代や男女の別を飛び越えて、すべての日本国民必携必読の書である、と、これだけは言えます。言っても許されようぞ、と。


そんなわけで内容については詳しく書きませんが、興味深いのは、作中に描かれている「昭和」の生活。
描かれた時期にもより、ある時は講和主席全権の帰国を喜び、ある時はド・ゴールの敗北が話題になり、建国記念の日に反対する若者がおり、それを見て嘆く親の世代がおり、青春時代を戦争で棒にふった(とサバを読む!)主婦がおり、また、どの家にもフロが無く、結婚披露宴は当たり前のように自宅や下宿先で行われている・・・などなど、激動の時代を通して連載されてきた新聞漫画ならではの、生の歴史書・民俗が、当たり前と言えば当たり前ですが、実にリアルに描かれています。

当サイト管理人は当年とって37歳でありますので、昭和から平成の両時代について、いわゆる「物心のついている状態」でまたがっております。
ですので、たとえば「サザエさん」「エプロンおばさん」で描かれている時代に対して、ある程度は実感することができます。
そう考えると、ワレワレの世代が、この諸作品を実感をとともに楽しむ事のできる最後の世代なのかも知れません。


これはまぁどうでもいい話なのですが、例えば「サザエさん」、この作品、右翼的と言ってはあまりにも極端すぎて正確でなくなってしまいますが、やや「保守」的な傾向が間違いなくあります。
少なくとも左寄りではなかった・・・連載されていたのが朝日新聞だったことを考えると、ちょっと意外だったりします。

当サイト管理人が勝手に考えておるだけではありますが、バブル初・中期くらいから、それ以前ほど、例えばなんでもかんでもアメリカべったりだったり、なんとなく体制批判しないと落ち着きが悪かったり、といったような、いわゆる「中道やや左」な傾向が薄まってきているような気がします。
このことを主に東アジアの諸外国では、日本の軍国主義化傾向、などと評したりしているようですが、そこまで言わなくても、とにかくそれまでの「中道やや左」よりは多少右車線に寄り気味であることは間違いなさそうに思います。
逆に「サザエさん」が連載されていた当時(主に後期)は、妙な表現ではありますが間違いなくこの「中道やや左」の最盛期だったはずなので、実は「サザエさん」は連載当時、世相において微妙な違和感を持って迎えられて然るべきだったのでは、と思います。
アニメの方の「サザエさん」が純粋無垢なホームコメディであるので、こういった原作の独特な批評性、思想はなかなか注目されることは無いようですが、どうしてどうして「サザエさん」はそれなりにアクの強い作品であります。


同じ作者の作品に「いじわるばあさん」というのがあります。これは「サザエさん」など他作品より以上に、全国民必読です。
「高齢者」に関する問題が深刻化(実はずっと昔から深刻だったはずなのですが)している今だからこそ、必読、と。

高齢者の、高齢者であるがゆえの孤独、間近に迫る死への漠然とした恐怖と諦念、また、高齢者を取り巻く未高齢者(誰でも生きてればそのうち高齢者になるので、「非高齢者」とは書きたくない感じ)の怠惰と、欺瞞と、偽善と・・・いわゆる「高齢化社会の問題」の諸々がこれほどビビッドに表現されてる作品はありません。
「いじわるばあさん」が「いじわる」なのは、決して単に「いじわる」な人だから、というばかりではないのです。
上記したような要因により彼女は半ば必然的に「いじわるばあさん」化しているのです。これはおそらく作者も意識してそう描いてるように思います。
この辺を理解しなければ、「高齢化社会」という時代・社会への本質的な理解も叶わない、と思います。

・・・ま、そんなわけで、この本たちだけは、皆さんも大枚はたいて買うべきですよ、と。

投稿者 kome3 : 13:27 | コメント (0) | トラックバック

2004年11月05日

人の話を聞く、ということ、など。

いわゆる「大人買い」というやつで、先日、先般出された沢木耕太郎全集を(今出てる分だけ)まとめて購入しまして、まさに毎日むさぼるように読んでおります。
そのおかげで今週のトータル睡眠時間計8時間(11月5日(金)現在)という状態で、まぁなにしろ眠い毎日なわけですが、昨日は「壇」を読了しました。

氏のどの著作も、ワタシには非常に面白く読めるのですが、この「壇」には、それ以外の微妙な「感動」を得るきっかけを与えられました。

「壇」は、「火宅の人」で知られる(この作品のみで知られている、みたいなところが、この作家の悲劇だったりするのですが)壇一雄に関する「ノンフィクション」です。
夫人の一人称による回想録という体裁で、作家檀一雄の生涯をつづったもので、これの執筆のために沢木氏は約1年間に渡りインタビューというかたちで夫人に取材したそうです。
全集の、著者による小解説にもこのあたりのことが触れられています。いわく、じっくり、徹底的に「人」に取材し、モノしたかった、と。

エラそうに書評などするガラではなく、またそんな脳も無いので、詳しくは書きません(書けません)が、この「壇」、まぁなにしろ面白かったですよ。
で、ワタクシ的には、この「人から徹底的に話を聞く(そしてそれをまた徹底的に咀嚼する)」というこの姿勢が、ワタシには非常に、ある意味ウラヤましく、また自戒のモトでもあったのでした。

当サイト管理人はかつて某超ローカルTV局におりまして、そこではいわゆる情報番組の類をセッセと作っておりました。
地域情報、というカテゴリーのものがほとんどで、あちこちに「取材」に赴き、「ニュース」という形態でしたら大体1分前後、番組によっては60分くらいにまとめ、放送する、と、これを13年くらい、来る日も来る日も繰り返しておりました。

この「繰り返し」というのが非常にヤッカイな、難儀なものでありまして、人間、同じような事を繰り返してますと、いつのまにか惰性になってしまうものです。
大体レギュラー番組というものは、レギュラーであるがゆえ、その構成はほぼ毎回同様で、ある決まった枠組みにおいて、その中身だけを毎回入れ替える、みたいなことになってるわけですが、何度もこれを「繰り返し」てますと、取材に行っても“ああ、だいたいこれくらい話が聞ければなんとなく埋まるだろう”みたいな感覚になってしまうのです。

そもそもTV番組を作ってる人間というものは、与えられた時間枠を、いかに耳障り・目障り(?)よくまとめるか、ってことがその仕事の第一義になっちゃってたりするもんなんです。断言しちゃってますが、それはホントにそうなんで仕方がない。五感を程よく刺激し、しかし本質的な部分においては、決して刺激的であってはならない、みたいなスタンスを身に付け・・・ある意味身に付けさせられるものなんです。

かくいうワタシも、今思えばそんな悪癖の権化みたいなもんでした。
取材対象が決まる・・・そしたら、その時点で、だいたいそれの紹介方法を決めちゃう。
こういう映像が最初に来て、こういう映像が続き、こんなタイミングでこんな内容のコメントをもらって、最後はこういう感じでしめよう、みたいなことをあらかじめ決めてしまうわけです。
で、実際の取材は、できるだけそれに合わせて撮影をし、インタビューをとる。
インタビューも、あらかじめ自分の頭の中にある内容しか答えられないような質問の仕方したりするわけです。
万一意に反した内容のコメントが出てきた場合は、編集の時点でカットしちゃう、と。

・・・こう書くと我ながらホントにロクでもない姿勢ですが、ホントだから仕方ないです。
あまりに忙しかったりとか、放送において本意ではない部分での「背負ってるもの」があったりすることや、また表現者としての実力不足だったりなどがこういう事態になってしまう原因・遠因だったりするのですが、とにかく、これはおそらくどの局でも、大なり小なりこういうことはあると思います。

氏の著作のスゴいところは、上記したようなところが殆ど無い・・・むしろほぼ真逆な姿勢で、取材・表現をしてらっしゃるところです。
「取材」という行為に対する姿勢、そしてそれを表現することに対する姿勢。
氏を評した文章に「スタイルの冒険」という言葉もありました。

「壇」は、一年間という長きに渡って、ヨソ子夫人から徹底的に話を聞き、それを、夫人の一人称という形で表現しています。

やはり氏の作品である「テロルの決算」では、故浅沼稲次郎氏と、山口二矢という二人を徹底的に調べ上げ、同じ時間軸上での二人の日々を並列に、二本の線として描き続け、それを映像作品でいう「カットバック」のように連ねていき、最後の最後にその二本の線を「交差」させる、という構成になっています。

2002ワールドカップを描いた「杯」では、それが日記形式として、氏の主観として描かれます。

このほか、どの作品を採ってみても、まず、氏は自分に課した「取材」におけるハードルがモノスゴく高いです。
自身の琴線に触れるところまで、徹底的に対象と向き合う。
そして、それを表現するスタイルにも妥協が無いです。
こういう対象のときはこういう手法・形式で、という方程式が無い・・・というか、そういう方程式そのものを否定しておられる。
どういう形式・構成で表現すべきか、それを決める際の幅が広い、というか、既成の方法論にとらわれない、「スタイルの冒険」がそこにあります。
取材等が決まると、真っ先に方程式探ししてたワタクシとはエラい違いであります。


このblogのテーマというか「やっていきたいこと」は
“出会った人や思ったことなど、つらつら書いていこう”
ということです。
“つらつら”はともかく、このことはかなりワタシの本音です。
・・・幸いにも(?)ワタシは今、比較的TV局にいたときのようなルーチンワークからは開放されています。
幸か不幸か、仕事において「定時」というものも無い。
局にいた時に背負わされていた事共からも開放されています。
だから、言いたいこと、思ったこと、紹介したいことが出てきたら、上記したような「悪癖」にとらわれる必要がほとんど無いわけです。

このblogでは、いろんなことを、キチンと「紹介」していきたいと思っております。

これは決してネガティブな意味ではなく、飽きたら止めればいいんだ、ってのは、非常にウレしいことでありますよ。
止められない、ってのがあったから、上記のような「悪癖」に陥ってたわけですからね。

投稿者 kome3 : 10:54

2004年11月01日

11月になりましたね・・・タイトルのことなど。

当管理人はWeb制作の仕事「も」やってまして、その関係で最近「ウェブログ(以下blog)」というものに関わる機会がなにげにいくつかありました。
そんなわけで、いわば私的勉強のつもりでこのblogを立ち上げた次第ですが、立ち上げたものの、blogの機能etcには全く無知、ゆえにWeb世界の中で「blogでなければならないこと」がどういうものなのか、っていうかそういうものがある(ありうる)のかどうかも定かではない、という状態です。
せっかく立ち上げたんだから、まぁとにかく続けていこうか。その中で新たな発見・発展もあるやもしれぬ、というような心持ちでおります。

沢木耕太郎氏の著作に「深夜特急」というのがありまして、管理人はこれを・・・ああ、もう10年も経ちますが、その当時大げさでなく熱狂して読みまして、単純軽薄なことにその影響でもって日本中(「世界」でないところが氏との大いなる差か)をブラブラ放浪というか徘徊してるわけですが、その中に出てくるのが「飛光よ!飛光よ!」という言葉です。
この言葉は先般刊行された氏の初の全集の第4集にも出てきますが、当blogのタイトルはそこから頂きました。

出典は、李賀の詩の一節だそうで、

飛光飛光
勧爾一杯酒

というものだそうです。

・・・いや、意味なんぞわかりません。わかりませんが、香港での夜、氏がこの単語に妙に心引かれたというそのキモチ、なんとなくわかるような語感・・・というか字面ではありませんか・・・?
光が飛ぶ・・・まさに香港の夜は、様々な色・強さ・明るさの光が不休で飛び交っているような感じなんだろうな、そして、それはおそらく「旅」において、そのものの意味の象徴なのかもしれない、とか。
雑多な光が飛び交う、「旅」も、もしかしたら人生も、飛び交う光のようなものかもしれない。
決してそれは空しいものではなく、といって恒久性が保証されてるほど安定してるものでもない。
だから面白いのか、などなど。


そんなことを考えつつ、このblogを艱難辛苦を乗り越えてインストール(いや、これはなにげにヤッカイでした)し、タイトルをつけ、公開に至って一段落、思い立ってこの「飛光」の意味を調べてみました。

飛光・・・〓は妓女と遊ぶ(中国簡体字)

??

・・・では「妓女」とはなんぞや?・・・まぁなんとなく意味の判る字面ではありますが、さらに調べると、

ぎじょ ―ぢよ 【妓女/伎女】<
(1)遊び女。娼妓(しようぎ)。

・・・「旅」と「飛光」とを結びつけると、なんだか東南アジアとかで女漁りしてるみたいになっちゃうのでありました。
有る意味出だしから頓挫している当blogです。

投稿者 kome3 : 02:08